とある屋敷の奥座敷
日もとっぷりと落ちた夜半時
人の出入りのなくなったその部屋を訪れる者があった

白銀の長い髪をたなびかせ
着崩した派手な着物に身を包んだ美丈夫が一人

訪れたその部屋に広がる温かな気配に目元を緩ませていた男は
しかしその直ぐ後にその気配に混ざる匂いに顔を顰めた

嫌なにおいがする

いやな

嫌な

臭い

「妖様?」
男が無言で顔を顰めていると、部屋の奥からか細い声が聞こえて来た
途端男はぱっと表情を変える
「おお、珱姫起きていたか?」
愛しい女の名を呼びながら男は嬉しそうにそちらへと笑顔を向けた
男が見つめるその先――部屋の中央に敷かれた布団に美しい姫が横たわっていた
衝立に隔たれたその横には、一本の蝋燭が僅かな炎を揺らめかせている
閑散とした殺風景なその部屋を唯一照らすその光
その炎の下で幾分かやつれた女が嬉しそうにこちらを見ていた

男は衝立を避けながら女の側へと腰を下ろすと「気分はどうじゃ?」と女の顔を覗き込んだ
覗き込んだ女の顔は相変わらず美しかったが、出会った時からの年月を表すかのようにその目元や口元には小さな小じわが目立ち始めていた
しかし男はそれを気にする風でもなく、にかりといつもの笑みを作り女の顔を見つめていた

「ええ、今日は幾らか良いです」
「そうか、そうか、それは良かった」
男は姫の言葉に嬉しそうにうんうんと頷く
「妖様」
姫は男を呼ぶと、すっと布団から手を差し出してきた
差し出されたその手
男は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ顔を顰めるとその細く白い手を握り締めた

細い細い手
肉はこそげ落ち
ただ骨と皮だけになってしまったその手
腕は血管が浮き上がり今にも折れてしまいそうなほど細い

男はその手を両手でそっと握り締めると「なんじゃ?」と優しく聞き返してきた
「妖様、珱姫は幸せでした」
「珱姫」
にこりと、珱姫は男に向かって微笑んだ
それは花が綻ぶように

その笑顔に男は目を瞠る
嬉しい言葉の筈なのに、まるで別れを告げるそれのようで
「何を言っとるんじゃ、まだまだこれからもっと幸せになってもらうぞ」
男は震える手を誤魔化すように女の手を強く握り締めると少しばかり大きな声でそう告げた
その言葉に姫は力なく首を振る
「いいえ妖様、私は十分幸せでした」
「珱姫!」
尚も続ける姫の言葉に男は身を乗り出す
しかし、姫はその男をそっと見つめ返すと静かな声で言葉を続けた
「ただ……」
「?」
「心残りといえばこの組の事でしょうか?」
男はその言葉に再度目を瞠った
まじまじと見下ろしてくる男の視線を受け止めながら姫はぽつりぽつりと話し出した
「この組が、妖様達が更に大きく立派になっていく姿をもう見ることが出来なくなる事です」
「そんなもん、このわしが見せてやる」
くわっと叫び声と共に言ってきた男の言葉に姫は薄っすらと笑むと今度は天井を見上げた
「妖様、この前夢を見ました」
「!?」
真っ直ぐ天上を見上げながら突然話題を変えてきた姫に男は虚をつかれた
言いかけた言葉を噤めず口をパクパクとさせている
そんな姿に可笑しそうにくすりと笑うと姫は続けた
「夢を見ました……この奴良組が更に大きくなって新しい妖怪や強い妖怪達が沢山集まって、あ、その時の総大将は何故か立派になった鯉伴でしたけど」
「なんじゃそれは?」
珱姫の夢物語に男は呆れたように相槌を打つ
「それで鯉伴が色んな妖怪達と一緒になって強い妖怪達と戦うんです。そして奴良組は関東一になって……しかも可愛い子供まで授かって」
「おいおいおい、それじゃわしはじじいか?」
「はい」
珱姫の突拍子も無い夢物語に男は更に呆れたように答えて来た
いつの間にかその夢物語に男も夢中になって聞き入っていた
そんな男を愛しく思いながら珱姫は更に言葉を続けた
「そしてその子供が総大将になって組を継いでくれるんですよ」
「はあ、なんとも珱姫の夢は果てしないのう」
「ええ、本当に」
ほぉ、と顎に手を遣り感心しながらそう言う男に珱姫はくすくすと笑い出した
「ええ、ですからもう十分なんです」
「珱姫?」
笑いながらそう言ってきた女に男は不安そうに眉根を寄せた
「もう十分です……」
心配そうに顔を覗きこんでくる男を姫は愛おしそうな視線で見つめ返す
そして

「今までありがとうございました」

男はその言葉に顔を引き攣らせた
ぎゅっとその白い手を離すまいと握り締める
「何を言っとるんじゃ珱姫?」
意味が解らんと目の前の女に頭を振る
必死になって首を振る男を愛おしそうに見つめていた姫はまたゆっくりと口を開いた



「愛しております」



まるで花が綻ぶかのような笑顔を見せながら一言そう告げてきた
恥ずかしがり屋の姫が滅多に言わないその言葉
しかし今、その姫は恥ずかしがるどころか誇らしげにそう告げてきたのだった
その想いの言葉は男の耳にしっかりと届いて
そして――

「珱姫」
抜けていく手の力

「珱姫」
微笑んでいたその瞳が段々と閉じていく

「珱姫」
薄れていくその気配



「珱姫」



「珱姫?」



「よう…姫…」





嫌な匂いがした

嫌な

いやな

イヤな



臭い



それはこの部屋に酷く不釣合いな



死ノ臭イ





「ようひめぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」



その夜
男の悲痛な声がいつまでもいつまでもその部屋に響いていた





美しい満月の夜
気に入りの枝垂桜の根元にぽつりと佇む男が一人
佇む男の頭上からは、はらり、はらりと美しい花びらが落ちてくる

珱姫が死んだ

美しく潔い死であった
まるで野に咲いた花が散るが如く
死への恐怖に泣き叫ぶことも恐れることも無く
ただ静かに
静かに逝ってしまった
微笑みながら

「珱姫らしいな」
男はぽつりと微笑みながら呟く
あの姫は優しい姫だった
傷つく者に涙を流し
哀しむ者にそっと寄り添ってくれる
そんな女だった

「幸せでした」

妻が残した言葉が脳裏に蘇る
「わしも幸せじゃった」
お前が側に居ると思うだけで心が和んだ
お前が笑うだけで周りが華やいだ
いつも
いつでも
幸せを与えてくれた

その珱姫はもういない

男はすっと瞼を開けると手の中のモノに視線を落とした
そこには――

一房の髪の毛

愛しい女の体の一部がそこにあった

男は艶のあるその束を握り締める
そして懐から取り出した守り袋に入れて首から提げた

「いつまでも一緒じゃ」

男はそう言うとまた枝垂桜を見上げた
その時、ざぁっと吹いた風が桜の花びらを攫っていった
攫われたその花びらの中
月の光を受けてきらきらと光る雫が無数
夜の闇へと消えていった



「わしも愛しておるぞ」



願わくば
いつかまた……



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