(何で・・・どうして・・・)
人知れず、リクオは苦悶する。普段は外での仮面を外し、自由に振る舞えて寛げるはずの家が、今や壮絶な緊張感を持って過ごさねばならない空間になっていた。
それもこれも、たった一人の少女のために・・・
「自業自得だってのは分かってるんだ。でも、それでも・・・」
「?どうかしましたか、リクオ様」
きょとん、と首を傾げる、愛らしい雪の少女―――つららが、リクオの部屋の隅に座っていた。
恋は難し悩めよ少年
つららがリクオに添い寝した夜が明けて。
リクオは普段、休日は特に、どれだけつららと共に過ごしているかを今、実感しつつあった。
まず、朝。今朝は省略されたが、いつもは彼女が部屋までリクオを起こしに来て、その布団を畳む。その後、朝食は彼女が給仕してくれるのでいつも一番近くに座っているし、朝食が済み部屋に戻ると、リクオが自分でまとめておいた洗濯物を取りに来る。
そして、自分の分担の家事が一通り終わると、日中は勉強するリクオの部屋の冷房機代わりとして、部屋の隅にちょこんと座っているのだ。その間、彼女は繕い物をしたり、組で回ってきた書類に目を通したり、ただリクオの背中を見ていたり・・・とにかく、リクオの勉強の邪魔にならないようにしている。そしてお昼になると、お昼の準備に一旦は退出し、そう間を経ずして昼餉の準備ができたと呼びに来る。お昼の後の勉強や読書の時間も、午前中と同様だ。そして、そろそろ休憩したいな、とリクオが思う頃に絶妙のタイミングで、お茶とお菓子を持ってくるのだ。
今も、つららは部屋の隅に座して、黙って繕い物をしていた。その彼女をちらちら見ては、不整脈を起こす自分に対して思わず漏らした呟きに、つららは耳ざとく反応してきた。
慌ててリクオは、「い、いや、小説の問題で、主人公が自業自得の罰を受けたことに対して考察せよ、ってのがあっただけ」と苦しい言い訳をすると、つららはそれで納得したらしく、「そうですか」と一つ頷いて元の作業に戻った。何とかバレなかったことに、リクオは安堵の息を付く。
リクオが、つららに対してここまで思い悩む理由―――それは昨晩、夜のリクオが添い寝してくれていたつららに対して、キスをしてしまったことにあった。しかも、つららが寝ている状態で。何度も、繰り返し。
朝になって我に返ったリクオは、一人そのことに絶叫を上げたが、当然誰に相談できるわけもなく、ましてや当人を前に落ち着いていられるわけもなく、朝から挙動不審のまま、今に至っていた。考え込んで歩いて、ちょっとした段差に蹴躓くことは一度や二度ではなかったし、食事のときも、もう4回も汁物を引っ繰り返してしまった。何てことはない、遠くにいればその存在が、近くにいればその昨日合わせた唇が、気になって気になって仕方ないのだ。らしくないのは十分承知、それでもどうにもならぬ己を、リクオは持て余していた。
(どうしたもんかな・・・)
リクオは再度、溜息をつく。昨夜のことは、忘れるには12の自分には少々刺激が強すぎる出来事だった。
「あの〜、リクオ様?」
「わっ?!」
いつの間にか、つららが間近までにじり寄って来ていた。思わず仰け反ったリクオに、つららも驚いた様子で戸惑った表情を浮かべている。
「あ・・・驚かしてすいません。でも、先ほどから溜息ばかりついていて、手が動いてないようですし・・・お疲れなら、少し早めに休憩を入れた方がよろしいかと思いまして」
そこで、ふとつららの目が文机の上のリクオの宿題の上に止まった。
「これ・・・国語じゃなくて、数学ですよね?」
(し、しまった・・・!)
先ほどつららに対してした、咄嗟の言い訳が仇となった。やはり、嘘とは簡単につくべきではないのだろう。
リクオが心底後悔しつつ、それでもどう誤魔化そうか必死に考えていると、つららがす、と手を伸ばして宿題を指した。
「リクオ様・・・この問題、ここで間違ってますよ?」
「・・・え?」
「ほら、ここ。x3-y3は、(x-y)(x2-xy+y2)ではなくて、(x-y)(x2+xy+y2)ですよ」
慌てて見直してみれば、確かにそうだ。そのせいで、不自然な解答になってしまっている。しかしそれだと、別の部分がどうもおかしくなりそうだった。
「えーと・・・」
考え始めたリクオに対し、つららは少し微笑んだ。それが横目に見えて、やはり不整脈を起こし始めた心臓のために、リクオの視線は紙の上を虚しく滑るばかりで問題など全く頭に入らなかった。それを見てつららはリクオが分からないと思ったのだろう、おもむろに手を伸ばして言った。
「ちょっと貸して下さい」
そして、リクオのシャープペンを持つと、計算用紙にすらすらと解答を書き始めた。流れ落ちる黒髪が計算用紙の上にかからないように、髪を掻きあげ耳に掛ける。その仕草に、思わぬ色気を感じて、リクオは目を奪われた。
さらりと流れ落ちる艶やかな黒髪
その黒髪をたどる、細く繊細な指
精巧な人形のような面立ち
そして、桃色に色づく柔らかな、唇―――
(う、あ・・・)
顔に血が上るのが、はっきり分かった。見慣れているはずなのに、それこそ生まれたときから、ひょっとすると母よりも長く一緒にいた存在かもしれないのに。いきなり襲ってきたそれは、明らかに制御不能だった。
固まり動けずにいたリクオには気付かず、つららはそのまま問題を解き終えた。そして、輝かんばかりの笑顔をリクオに向ける。
「ほら、できましたよ、リクオ様!」
そこで、ようやく主の様子が違うことに気が付いたらしい。驚いて、リクオを見つめた。
「若、顔が赤いですよ?!ひょっとして、熱でもあるんじゃ・・・」
「や、なんでもない!すぐ収まるから!!」
慌ててリクオは首を振ると、つららが書いた解答に目を降ろした。そして、そこにある見事な模範解答に、目を丸くした。
「すごいね・・・つらら、数学できたんだ」
「え・・・えと、まあ」
つららは、照れて顔を赤らめた。リクオに褒められたのが、純粋に嬉しいのだろう。
「その・・・先代の鯉伴様は、新しい物好きでしたから。西洋の知識が入ってくると、積極的にそれらをこの家にも導入されていって。こうした教育もその一部で、私も手習い程度には、齧ったんです。高校ぐらいの範囲までしかやりませんでしたし、そんな立派なものではないんですけど」
それでも、そんな随分前のことをきちんと覚え、こうしてリクオに教えられたということは、やはりつらら自身の頭が良いからだろう。つららの意外な一面に、リクオは素直に驚いた。
「でも、やっぱりすごいよ・・・うん、すごい。つらら、こんなこともできたんだ」
「そ、そんな・・・」
褒めちぎるリクオに、さすがに照れて居たたまれなくなったのか、つららは少し口早に提案した。
「そ、そうだ!区切りも付いたことですし、休憩にしましょう!お茶、持ってきますね」
つららはそう言って立ち上がったが、次の瞬間、リクオが止めた。
「あ、ちょっと待って、つらら。そう言えば、もうシャープペンの芯がないんだった。休憩よりも、ちょっと気分転換に買い物がてら、外を歩いてくることにするよ」
「あ、そうですか?でも、私もこの後、夕飯の買い出しがありますから、何ならついでに買って来てもよろしいですが」
「え・・・でも、この炎天下、つららだけで大丈夫?」
「仕事ですし・・・完全防備していきますから!」
「心配だな・・・よし、僕も付いてくよ」
「え・・・えぇ?!」
そういうことになった。
「つらら・・・大丈夫?」
「は、はい・・・何とか」
買い物に行く道で、二人はゆっくりと午後遅い時間を歩んでいた。遅い時間といってもまだ夕暮れには程遠く、そしてやはりまだ8月。気温は、雪女にとっては少々辛いものだった。行くと言って聞かない彼女は今、手袋に長袖長ズボン、おまけに日傘をさしている。最も、最近は日焼けを気にしてそのような格好をする者も多いので、最初にリクオが懸念したよりも目立つことはなかった。
それでも、歩くつららは見るからに辛そうだった。ようやく、二人してエアコンの効いたデパートに転がり込むと、つららだけでなくリクオもほっと息をついた。
「やっと、着きました・・・」
「つらら。命令。次からは、夏の買い出しは他の者に代わってもらって。絶対だよ、もし必要なら僕からも一言言うから」
流れ落ちる汗を拭いながら、二人は視線を交わし合った。
「でも・・・お仕事ですし」
「それなら家の中の仕事のシフトを増やせばいいだろ?皆も鬼じゃないんだから・・・いや鬼だけど」
とにかく、とリクオは少し強い口調になって言う。
「もしつららが、またこんな炎天下を歩くことになったら、僕が、気がかりで仕方がないんだ。これからは、絶対に、代わってもらって」
一瞬、つららはその言葉にぽかん、として・・・次の瞬間には、みるみる頬を染め上げた。
「あ・・・リクオ様、もしかして、私のこと・・・心配して、下さってるんですか?」
頬を染め、上目遣いで見つめてくるつららは、リクオから見てもとてつもなく女の子らしくて、どうしようもなく可愛かった。その暴力的とまで言える可愛らしさに、リクオは炎天下を歩く中で忘れていた感情を思い出し、慌てて顔をつららから背けた。自分も、頬に血の気が集中しているのが分かった。
(やばい・・・つららって、ずっとこんな感じだったっけ)
思い出そうとしてもできなかったが、それでも頭の中では半ば以上、これが自分の感情の変化に起因するものだということを、リクオは承知していた。
「と、とにかく・・・とっとと買い物済ませて、ちょっと喫茶店か何かで休もう。夕暮れになれば、少しはマシになるだろ」
そう言って、リクオは足早に目的の店に向って歩き出したのだった。つららと普段、どれくらいの距離で歩いていたっけ、なんて考えながら。
「あ、リクオ様・・・」
歩きだしたリクオの背を追って、つららはまだだるさを訴えてくる体を叱咤し歩きだした。こちらを見ない主に、少し不安になる。
(ちょっと、うざかったかな・・・)
消沈した気持ちで、そう考える。急に舞い上がった気持ちは、落ちるのも早かった。
(チャンスだと、思ったのにな・・・やっぱり、こんな炎天下に引っ張り出されて不機嫌なのかも)
そんなことを考えながら、先を歩くリクオの背を見つめた。
最初、付いて行くと言われた時、ドキッとした。
(え・・・これって、もしかしてデート?!)
なんて考え舞い上がり、無理してここまで来てしまったのだが、よく考えれば別にこれまでも、一緒に買い物に行くことはあった。要は、つららの気の持ちようが変わっただけのことだ。
しかし、それならそれ。自分の気持ちに気付いたなら、積極的にもなれる。昨晩の決意をさっそく実行しようとしているつららだった。
(とにかく・・・この買い物で、女の子っぽさをアピールしなきゃ!)
そう思い、つららはぐっと拳を握り、決意を固めたのだった。
その後、二人はまず文房具店に行って、シャープペンの芯とその他の文房具を買い。
食料品売り場に行って、つららがリクオに野菜の選び方を教えつつ、夕飯のリクエストを聞いて。
あっという間に買い物は終わって、二人はデパート内にある喫茶店に向い歩いていた。
終始、リクオはつららにどこかぎこちなく、つららもその訳を尋ねられずにいた。今は至って無言で、二人は歩いている。
(うう〜、私、何か変だったかな?それを、リクオ様も悟って、変に思ってる・・・?)
(あ、それともひょっとして・・・昨晩、私変な寝言を言ったとか?それともそれとも、ひょっとしてあのおでこへのキスのとき起きてたとか?どうしよう・・・)
途端に、つららは泣きだしそうになった。
もし、この想いがリクオに知れて。
そして、拒絶されてしまったあげくに、嫌われたら・・・?
姉の様な存在なのに、気持ち悪いと思われたら・・・?
(私、生きていけないかも・・・)
本気で、そう思う。
でも、今泣いて、それをリクオに悟られるわけにはいかなかった。こんな往来で、そんな目立つこと、彼は嫌うだろう。だから、つららはぐ、と唇を噛み締め耐えた。
―――自覚した恋心が、こんなに辛いなんて、知らなかった・・・
涙を流せぬつららは、切ない視線を、彼の背中に向けた。苦しいです、と心の中でそっと、呟き訴える。
そんな思いに、彼は気付くこともなかろうと、そう思っていた時・・・その彼が、ふ、と立ち止った。
「・・・リクオ様?」
一瞬、自分が泣きそうな顔をしていたことを悟られたのかと思ったが、その様子を見るとどうも違うらしい。ある店の店頭に置いてある品を見ているようだ。何とか気持ちを押し堪えて、無理に明るい声を出してつららはリクオに近付いた。
「どうされたんですか、リクオ様?何か欲しいものでもありました?」
500円以内ならいいですよー、などと言って彼の見ているものを覗きこむと、そこには色取りどりのシルバーアクセサリーがずらりと並んでいた。どれも精巧な作りで、主にはシルバーなのだが、要所要所に嵌めこまれた色ガラスが目を引き付ける。
「うわぁ・・・綺麗」
思わず、つららは呟いていた。リクオは、側に来たつららを見て尋ねた。
「つららも、こういうの好きなの?」
「ええ。そりゃ、これでも女ですもの。綺麗な装飾品は好きですよ。ああ、でも・・・」
意外と、さらりと自分が女だとリクオに言えた事に内心驚きつつも、つららはふとそこで何気なく、付けたした。
「好きな殿方からもらえたら、私は何だって嬉しいですけど」
リクオの体が、ぴく、と一瞬動き、そこで止まった気がした。少し間を開けて、リクオが尋ねる。
「つらら・・・好きなやつ、いるの?」
「え・・・」
目を見開いて・・・つららの頬が、みるみる赤く染まった。同時に、しまったとも、思う。そのような質問を自分から誘った上に、これでは「いる」と答えているようなものだ。
しかし、まだリクオに自分の気持ちを告げる時ではない。
そう思ったつららは、ただ頬を染めたまま、じっと俯いていることしかできなかった。
「ふーん・・・」
リクオはそんなつららをしばらく見ていたが、ふとおもむろに一つのシルバーアクセサリーのブローチを取り出すと、つららにあてがった。
「悪くないけど・・・ちょっと派手かな」
「リ、リクオ様?!」
驚いてつららがリクオを見ると、リクオの顔は至って真面目だった。う〜ん、と首を捻ると、また別のアクセサリーを見始める。そのとき、ふと置いてあったカフスが目に付いて、思わずつららもリクオの腕にそれを宛がっていた。
「つらら?!」
「うーん・・・悪くないですかね」
その後は、まるで競うように、いろいろなアクセサリーを二人で試し合った。似合うものもあったし似合わないものもあったが、それを互いに批評し合い、気付けば二人とも笑顔になっていた。
思う存分に笑って、楽しんで、時を過ごした。そして、気が付けば、時刻は夕暮れになっていたのだった。
「楽しかったですねー、若」
「ん・・・そうだね。でも、何も買わなくて良かったの?」
「別に、なくても困らない物ですからね」
嬉しそうに歩くつららを見ながら、リクオも穏やかな気持ちで帰路を歩んでいた。今朝からの気まずさはどこへやら・・・穏やかにつららと歩む夕暮れの道が、ひどく心地良かった。
楽しげに揺れる、長い黒髪を流した背を見る。ふと、昨晩決意した想いが蘇ってきた。
―――彼女のことを、全て知りたいという、想い
『好きなやつがいる』と知ったときの、自分の気持ちは形容し難いものだった。何も言葉が出ず、ただ頬を染め俯く彼女を見て、自分の中に黒くどろりとした質感のものが、流れた気がした。気付けば彼女に似合うアクセサリーを見繕っていて・・・おそらく例え彼女が誰を思っていようとも、自分のものだと主張するような物が、欲しかったのだろう。まるでそれが、駄々っ子のようだと分かっていても、それならそれでいいと、開き直ってしまう心持ちだった。
前を歩く、つららを見る。本当は、リクオにはもう一つ、彼女に問いたいことがあった。
「ねえ、つらら」
「はい?」
つららが、立ち止ってリクオを振り返った。無邪気な笑顔がリクオに向けられ、それにわずかに、尋ねることを躊躇した。なぜかは分からない・・・しかし、答えを聞くのが少し怖いと、思った。
それでも、リクオは尋ねた。彼女の瞳を、真っ直ぐに見て。
「あのさ・・・つららは、どうして・・・僕を、守ってくれるの?」
主だから?
祖父の命令だから?
ずっと育ててきた、弟のような存在だから?
様々なつららの答えが頭に浮かぶが、そのどれもが、自分の望むものとは違っている気がした。
つららは、少し小首を傾げ、不思議そうにリクオを見た。ひょっとすると、彼女にとってはもう当たり前のこと過ぎることなのかもしれなかった。それでも、リクオは彼女からの明確な回答が欲しいと、思ったのだ。
「・・・知りたいんですか?」
「うん」
リクオが頷くと、つららは「そうですねー」と少し考えるようにしてから、口を開いた。
「それはですね、リクオ様・・・」
そのとき―――つららは、ふわりと笑った。
夕陽の紅い風が吹き過ぎて、彼女の長い黒髪を乱していく。
彼女はそっと、人差し指を唇に当てて―――囁く様に、言葉を紡いだ
「ないしょ、です」
謎めいた、笑みを残して
ぞくり、と、皮膚が粟立つ。
少女だと思っていた彼女は、いつの間にか『女』になっていた。
夕陽に紅く照らされ微笑む彼女は、艶と畏を纏い、リクオの息が詰まる。
彼女は、囁きを続けた。
「なぜ、ないしょなのか・・・分からないでしょう?リクオ様」
少し、離れた場所に立つ彼女
「分かるまでは、ないしょです」
夕陽の赤に負けない、黄の煌きを瞳に宿して
「だめですよ・・・そんなに簡単に、他の心が分かると、思っては」
涼やかな声を残す、艶めいたその唇に
自分は彼女の畏れに呑まれたのだと、思った―――
「うーん、ようやく終わったぁ・・・」
勉強に疲れた体をぐぅ、と伸ばし、すぐに脱力して、五体をリラックスさせる。ようやく、夏休みの課題が全て終了し、達成感と安堵のため息をリクオはついた。時刻は既に、夜10時を回っている。
そのとき、ちょうど襖の外に慣れた気配を感じた。
「リクオ様、お勉強中に失礼します。お茶のお代わりをお持ちしました」
「ああ・・・丁度、終わったところだよ。入っておいで」
す、と音もなく障子が開いて、つららが室内に入ってくる。そして、にっこり笑った。
「もう夏休みの宿題、終わられたんですか?さすがリクオ様ですね」
「そうでもないよ。さすがに、大変だった」
苦笑気味にリクオがそう答えると、つららは安心した表情を浮かべ、リクオの側へ寄ってきた。
「それは、お疲れさまでした。はい、どうぞ」
「うん、ありがとう」
手渡された、よく冷えたお茶をリクオは飲み干す。疲れた頭に冷えたお茶が、気持ち良く沁み渡った。つららは、ふふ、と笑った。
「なに?」
「いえ・・・ようやく、いつものリクオ様に戻られたなぁ、と思いまして」
謎の笑いの意味を問えば、そんな答えが返ってきた。それを聞いて、ギクリ、と体を強張らせる。
「・・・やっぱ、気付いてた?」
「ええ、それは、まあ。いつもと様子が違いましたし・・・昨晩、私が何か粗相をしたのかと思って、少し不安でした」
そう言って、つららは微笑む。ふと、その艶やかな唇に、またもやリクオは目を奪われた。
―――昨晩、自分は、あれに・・・
不意に、ドクリと、心の臓が脈打つのをリクオは感じた。今朝からの不整脈とはまた違う・・・血の、熱いさざめき
同時に、どうしようもない想いが込み上げてくる
不意に黙り込んだリクオを、つららは怪訝そうに覗きこんだ。
しかし次の瞬間、あ、と思う間もなく、つららは腕を引かれ、その広い胸に飛び込んでいた。
(え・・・?広い・・・?)
は、として目を上げると、そこには夜姿に変化したリクオが、いた。
「じゃあ・・・知りたいか?」
「へ・・・ふえええぇ?!」
いきなりのことに、つららは素っ頓狂な悲鳴を上げていた。リクオの夜の秀麗な顔が間近にあり、それが色気を孕んだ流し目をしてくるのだ。たまらず、つららの頬が一気に紅潮する。
しかも、気が付けば自分の体はリクオの膝の上にあり、腰には逃げれないようにがっちりとリクオの腕が回っている。有体に言えば座ったまま抱きしめられているようで、大胆過ぎる夜のリクオの行為に、つららはくらくらと目眩がするのを感じた。
そっと、顔を寄せてくるリクオと、何とか距離を作ろうと、リクオの胸板に自分の両手を置き、顔を背けた。しかし、耳まで真っ赤に染まり、これほど間近にあっては、あまり意味はないかもしれなかった。
「し、知りたいって・・・な、何を、ですか」
出した声は情けなくなるくらい震えていた。それでも、これがつららに出来た精一杯の反応だ。
頬を染め、恥じらい俯くつららを、リクオは愛おしそうに見つめると、その耳元で囁いた。
「昨晩、あったこと・・・俺が、お前にしたこと、だよ」
「リ、リクオ様が、私に・・・?」
途端に、つららの脳裏に昨晩の幸せな夢が閃いた。あの、生々しい感触と、温かい腕と、そして―――
(い、いえいえまさかまさか!あれは夢に決まってるわ、だってだって・・・!)
焦り必死で否定する思考と、そうであったらと願うわずかな心情で、つららはそっとリクオを上目遣いに見た。
すると、思ったよりも間近にあったリクオの顔が、くつりと笑って。
つららに、囁く。
「要は、な・・・」
そう言うと、リクオはおもむろに、自らの小指の先端の腹を舐めて。
その小指を、そっとつららの唇の上に、走らせた。
まるで、紅を引くかのように、淡い桃色の唇をなぞり、その上に、わずかな湿り気を残して。
「リ、クオ・・・様?」
にやり、とリクオが、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「こういうことだ」
次の瞬間、つららはようやく、自分が何をされたかを把握した。途端に、ふしゅうううう〜、とものすごい蒸気が頭から出て、あわあわとつららは手足をばたつかせ、何とかリクオの腕から逃れようともがく。
しかし、それを容易く許すリクオではない。つららの腰をがっちり捕らえているので、結局つららができたのは体をリクオの腕の中で逆転させることだけだった。必然的に、つららは背中をリクオに向けることになる。リクオの綺麗な顔が離れたことに、少しだけつららは安堵しつつも、リクオの腕から逃れる努力を続ける。
しかし、リクオも甘くはない。後ろ向きになったことで、つららの白く細い首筋が見えた。もがいているので、マフラーがずれたのだ。しかも着物も乱れて、少々おぼつかない雰囲気を漂わせ始めている。
喉の奥でくっくと笑うと、リクオはその耳元に、息を吹きつけるようにして尋ねた。
「なんなら・・・今夜も、一緒に寝るかい?」
何もしねぇ保障はねぇが、という言葉を付けて。
そして、一瞬固まった彼女の隙を突き、その覗いた細い首筋に、吸いついた。
ちゅぅ、と音がなるほど強く吸う。すると、途端に彼女の体が反り返った。
「ひぁっ・・・!」
瞬時、リクオの体が固まった。
突然漏らされた、情欲を煽るような、その声に。
彼女がそんな声を出すなんて、全くの予想外で。
不覚にも腕の力が緩み、その隙に、彼女に逃げられた。
つららは慌てて距離を取り、涙目でこちらを見つめてくる。
そして、叫ぶようにして、言った。
「こ、今夜は、遠慮しますぅ〜〜〜!!」
そう言うなり、ぱっと身を翻し、つららはリクオの部屋から出ていった。
「冗談だよ」
笑いをわずかに含んだリクオの声が、ぱたぱたと遠ざかるつららの足音を追い掛ける。
(とはいえ、な・・・)
最初から、そう言うことは決めていた。どれだけつららに迫っても、最後は『冗談だ』と言って、悪戯として締めくくると。
しかし、先ほどの耳に焼きついた声を思い出すと、どうも冗談では済まなくなりそうなのだった。
(ったく・・・腐っても雪女ってわけか)
このままでは、彼女を知る前に、いつか抑えが利かなくなりそうだ。
そう思うと、自然と溜息が出てくる。
悩める少年の夜は、そうして更けていった。
(終)
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