「リクオ様」
「うん」
「リクオ様?」
「うん」
「リクオ様ってば!」

三度目に名を呼ばれ、リクオはやっと意識を取り戻した。

「ん、え?」
「青ですよ、渡りましょう?」

はっきりとしたリクオの視界に映ったのは通学途中の横断歩道だ。 信号の色が青を示し、こうしてつっ立っている間にも自分達の横を同じ制服を着た生徒達が次々とすり抜けてゆく。

「ああごめんつらら、青」

苦笑いしたリクオは「行こう」と隣のつららと、そして後ろにいる青田坊に言った。

「はいっ」
「どうしたんですかいリクオ様」
「ううん何でも」

後ろを歩く青田坊に答えるものの、だが「何でも」という言葉一言で片づけられる程リクオの胸の内は簡単なものではなかった。
先ほど述べた変化というのは、心情のだ。
総大将としての自覚だとかそういった大きく漠然としたものではなく、ある一個人に向けての心情だった。
そしてまさしくその対象となる女が、今隣にいる。

「リクオ様?」

本日もう何度呼んだか知れない名をまた呼んで、その女はリクオをじっと見つめて―――否、"見つめ返して"きた。
またリクオは、考え込むようにしてつららのことを凝視してしまっていたのだ。

「リ・ク・オ・さ・ま!」
「っわぁ!ご、ごめんっ!」

リクオは盛大に飛び跳ねた。
そうこうしている内にも自分の通う学校の校舎は既に目の前で、気づけばリクオは中学校の門をくぐっていた。


*


つららに対する感情が変わった。
一言に言ってしまえばそうなる。
いつからだ、と聞かれると、やはり夏のあの闘いを通した後なのだろう。
―――しかしリクオは困っている。

「あれ、つらら来てない?」
「来てないよー」

放課後リクオが清十字団の部室にやって来ると、そこには巻と鳥居の二人だけがのんびりと寛いでいる状態だった。
授業後、珍しくつららが教室の前で待っていなかった為にここに来ていると思ったのだが、どうやら違ったようだ。

教室から顔を出し、廊下にリクオは目を凝らした。
生徒で賑わっているが、つららの姿はない。

「どこ行っちゃったんだろ……」

つららが傍にいないと妙に落ち着かなかった。
そして落ち着かない気持ちと共に、もう一つ感じるものがあった。
―――不安だ。

これを感じるようになったのも、きっと"あの時"だ。
自分の為に傷ついた彼女が自分の目の前で攫われた、あの時だ。
ただこれよりもずっと大きく、押しつぶされそうな不安だった。

あれ以降、つららが傍にいないとリクオは妙にそわそわとした気持ちを感じてしまうらしかった。
ただ何故かというと、肝心なそれが今のリクオにはわからない。
困っているというのは、そういうことだった。

「わーか!」
「…!つらら!」

リクオは目を丸くさせた。
またしても考え込むリクオの後ろで急に声が聞こえたと思ったら、そこに居たのは今の今までずっと探していた女の姿だったのだから。

「おーつららちゃんいらっしゃーい」

ひらひらと手を振りながら巻達もつららの登場に笑顔である。
にこにこと彼女達に応えながら、つららはまたリクオの方に向き直った。

「すみません若、ちょっと本家の方に戻ってまして」
「そっか。………でもねつらら」

つららが傍にいることにほっとしつつ、その頭にぽんぽんと手を置きながらリクオは言った。

「もう"若"じゃないから」
「っは!すみません若!」
「ほらまた」

リクオは吹き出した。
何年も使ってきた呼び名を、彼女が呼ばないように慣れてくれるのは一体いつになるのだろうか。

「で、いつ付き合うのあの二人は」
「さぁ」

そうして漫才のようなやり取りをするリクオとつららを遠目に、ここでは第三者にあたる鳥居と巻が、のんびりと二人を傍観しながら溜息を吐いたのは言うまでもない。


*


「リクオ様?」

また、気づけばつららが目の前にいた。

「―――うぉっ」

リクオは途端にのけ反った。
同時に手にしていた盃の中の水面が大きく揺れたが、間一髪のところで溢さずには済んだ。
そんなリクオの様子につららの方も焦ってしまったようで、あわあわと謝りながら彼女は両手を泳がせてくる。

「す、すみません!…あの…リクオ様、今日は……?」

どうかされたのですか―――?
そしてその後つららは遠慮がちに、だが目を丸くさせて言った。
普段なら、またこれは特に夜のリクオに言えることだが、慌てる仕草など滅多に見せないからだ。
昼の姿のリクオといい夜の姿のリクオといい、今日は彼が妙にぼうっとしていることをつららも感じていたようである。

「……ああ…」

盃を持ち直し、つららから目を逸らしながらリクオは「何でもねぇ」と朝と同じことを言ってバツの悪そうな顔をした。

夜の姿になった自分は今、自室でつららに酌をしてもらっている。
相当考えに耽ってしまっていたらしかった。それこそ隣のつららが心配してくる程に。
覗き込んでくるつららのその気配にも全く気付かなかったとは、いかに自分がこの女について悩み悶えているのかを思い知らされたようだった。

「そうですか?」

ならいいですけど、とリクオの返答を聞いたつららは微妙な面持ちをしながらも座り直した。
それから盆の上の物を片づけようとリクオに背を向ける。

リクオは黙り込んだままつららの背中を見つめていた。
華奢な背中だった。壊れそうに儚く。
彼女はその華奢な身体でどれだけ自分の為に尽くし、何度自分を守ろうと命を張り、そして涙を流したか計り知れない。
しかしリクオはたまにそれがわからなくなるのだ。
青田坊、黒田坊、首無といった、同じ大切な仲間でも彼らには感じない感情というものがつららに対してはある。

男と、女。
主と側近である前にもっと根本的な、生物学的な考えなのかもしれない。
つららは女なのだ。
当然身体的なそれは男である自分よりもはるかに劣り、弱い。

今思っていることをリクオがつららに口にすれば、きっとつららはそれを否定するだろう。
もしくは何のご冗談ですかと言って笑うかもしれない。
だがつららを見つめている内、それを否定されたとしても尚、名状し難くどうしようもない感情が心底から湧き上がってくるのをリクオは感じていた。

「……つら………」

――――これが、守りたいという感情なのか。
男が女に対して思う"守りたい"なのか。
気づけばリクオはつららの背に向かって手を伸ばしていた。
その後何をしようとしたかったのか自分でもわからなかったが、とにかく彼女のことを、少しでも傍に置いておきたかったが為の行動だったのかもしれない。

しかし「あ」と言って障子の外へ乗り出したつららの肩にそれが届くことはなく、リクオの手は空しく宙をかくことになる。

「リクオ様、満月ですよ!」

薄暗かった部屋に障子の隙間から光が差し込んできたのだ。
両手両膝を畳について外を、空を見上げるつららはリクオに振り向いて笑顔になった。
盃を手にしたまま、そうしてリクオもつららの隣へやって来て障子の外を見やった。

雲の間から顔を出した月が煌々と優しく輝いている。
横をちらりと見やると、それを見上げるつららは笑顔だった。

「………」

結局、言えず終いだ。
守りたい。だがこれと、そして昼間の時のあの気持ちとが果たして"そういった感情"に繋がるのだろうかと考えると、リクオはまた首を傾げてしまう。
何かが変わったということは確かに感じているのだ。が、気持ちというものがどうも明瞭にならない。
つららとこうして二人で過ごしていて、リクオ自身、そういう方面の気持ちがわからないのである。
自分はつららをどう思っているのか、どうしたいのか、わからないのである。
我ながら情けないと思ってしまう。
けれど。

「………散歩、行くか」

月見がてら。そう言って盃を置いて立ち上がると、リクオはつららに言った。

「あ、じゃあ私これ片づけておきますね」

いってらっしゃいませと笑顔になるつららに、リクオは溜息を吐いた。

「つらら」
「へ?」

何言ってるんだお前、と言わんばかりに溜息を吐いて自分のことを見てくるリクオに、つららは間の抜けた声を出した。
これは片づけてはならなかったのだろうかと、そんな的外れなことをリクオを見つめながらこの時の彼女は考えてる。
それ故返ってきた返事はつららにとっては想定外のものになった。

「おめーも行くんだよ」

羽織を肩にひっかけながらリクオは廊下に出、つららに背を向けた。
どんな表情をしているのかはリクオの後ろにいるつららにはわからない。

リクオの言葉を聞いたつららは一瞬、そう言う彼の背中をぽかんと見上げていた。
―――しかしすぐに、瞳を輝かせる。

「はい!」

秋の風が心地よかった。
月が淡く、歩く道を照らして出してくれている。街灯の無い中でも提灯を持たなくて良い日は珍しかった。
やはり満月だからであろうか。

「綺麗ですね」
「ああ」

見下ろせば、つららと目が合った。
目の合ったつららは満開の笑顔で微笑んでくれる。
そんな彼女から意識して目線を逸らし、今一度月を見上げたリクオは何とも言えぬ顔で頭を掻いた。

自分がつららをどう思っているかはわからない。
そしてそれをわかる日が来るのか到底見当もつかないのは、無論今がこんな気持ちだからだ。

「ほんとに綺麗ですねっ」
「ああ。……何回も言うなよ」

リクオは笑った。

―――けれども一緒に隣を歩いてくれるこの側近はリクオにとって、思わず傍に置いておきたくなるような、そんな柔らかな安堵をもたらしてくれるかけがえのない存在なのであることはきっと間違いないのであろう。

Fin.
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