ある雨の日の昼下がりのことだ。

「え、ちょ、リクオ様、それ………」
「うん、わかってる、わかってる、だからつららにだけはこれは……」

これは昼下がり、玄関先でのリクオと毛倡妓の会話である。
外から帰って来たリクオを見やるなり、毛倡妓はぎょっと目を見開いていた。
何故かというと、買い出しを引き受けて一人で出かけた筈のリクオが、本家へ帰ってくると一人ではなくなっていたからだ。
とんでもないものを持ち帰ってきたからだ。

「リクオ様ぁ〜帰られたのですかー?」
「うわっ」

そしてお約束といったところか、たまたま廊下を歩いていたのだろう。
玄関から聞こえてきた二人の会話に、その問題の女がとてとてとやって来てしまうのである。

「だ、だめ!つらら来ちゃだめ!」
「?なんでですか?」

その後、エプロン姿でおたま片手にそこへやって来てしまったつららにより、場の空気が凍りついたのは言わずもがなである。
彼女の手にしていたおたまは、気がつけば音を立てて床に落ちていた。

「リクオ様!すーき!」

そこで聞きなれない可愛らしい女の声がリクオのすぐ真横から、空気も読まずに元気に響いた。

それは既述したとおり、リクオが雨の中買い出しを引き受けて買い物に行っていた帰りの出来事だった。
帰り道の川辺の土手で、傘もささずに女がうずくまっていたのである。

「どうしたんですか?風邪引きますよ」

そうしてリクオが案じて傘を女の上にさしてやると、その女は振り向いた。
美人だ。
女から妖気を感じたのは、ふがいなくもこの時が最初だった。



「……で、こうなったんですか」
「う…そんな目で見ないでよ」

先ほど盛大に凍らされ、それでもまだ氷が纏わりついている右腕をたらいのお湯につけて溶かしながら、つららと濡女と共に自室へ戻ってきていたリクオは顔を引き攣らせて後ずさった。
リクオにくっついてきた妖怪、濡女(ぬれおんな)。
これでもかというくらいリクオの左腕にまとわりついているその様相は明らかリクオに好意を抱いている。 傘を差し出してくれたその優しさに惹かれたといったところだろうか。
右に氷、左に濡女。

「濡女さん」
「はい、何でしょう」

リクオが話しかけると、濡女は笑顔で素直に返事を返してきた。

「その…ちょっと離れませんか?」
「いーやっ」

リクオが言っても彼女はにこりと笑うだけで、リクオの腕から離れる様子は甚だない。
同時に感じたじとりとしたつららの視線がやけに痛い。
勿論あの時ただの善意で女に話しかけたリクオに悪気は全くなかったのだが、今つららに対して罪悪感を感じないと言えば嘘だ。

この濡女は男に未練があるまま死んだおなごの霊が妖と化してしまったものらしい。
自分の存在がわからないわけではないらしく、女は自分が死んだことを知っている。その時の記憶もはっきりと覚えている。
生前ひどいふられ方をし、川へ身を投げたのだという。
しかしやはり生前の野望を叶えたい――いい恋愛がしたいということか――と、成仏することができずにこうして妖となってここにいるわけだ。

だからこそ、男に乱暴な態度を取られることには彼女はきっと極端に恐怖するだろう。
無理矢理追い払うのは可哀想だった。

「で、アナタはだあれ?」
「へ」

リクオに張り付いている濡女はふいにつららの方を見やり、言う。
今頃気づいたように言う割に、厭味のようなものは欠片も感じられない。純粋につららのことが気になっているようだ。

「……えっと」

濡女に話しかけられたつららは迷った。
下手にここでリクオとの関係を漏らせば、リクオに好意丸出しの彼女を傷つけかねないからである。

考えた結果、つららはこれだけ言うことにした。

「ええと私はリクオ様のそっき……」

ん。とつららが言い終わる前だった。
なんと既に女は「ねえリクオ様!」と、つららに質問したことなどまるでさっぱり忘れたかのように、リクオに擦り寄っていたのだ。

「好き。ねぇ、結婚して?」
「う、えぇ?」

濡女は尚もリクオにべたべたしている。
困ったように頭を掻いたのちリクオはつららを見やるが、当然、女に完全無視された上にリクオをもその手中に奪われ、つららは涙目になっている。

「ちょ、あ、つら……」

手を泳がせてつららに近寄ろうとするも、そうさせてはくれないのがこの濡女だった。
濡女はリクオの温和な雰囲気にもよほど惹かれたのか、好き好きといってなかなかリクオの腕から離れなかった。

初めて見る妖怪だったが故に本家への帰り道で聞いたのだが、案の定彼女は"放浪もの"だ。奴良組のシマの者ではない。
そして文字通りぼとぼとと濡れた見てくれなのだが、ひっつかれているリクオ自身は不思議なことに濡れていない。
リクオが好意を抱かれている者だからだろうか、彼女は畏れの調整のようなものをできるみたいだった。

しかし部屋自体は濡れずに済むものの、いつまでもこうしている訳にはいかない。
色々とこじれるものがあるからだ。
張り付いている濡女をやんわりと腕から引きはがすと、リクオは立ち上がった。

「行かないで!」

途端、座る濡女は縋るように立ったリクオの服に腕を伸ばしてしがみついてくる。
掴みどころのない態度といい、しつこい女、というよりは、さながら温もりを欲する子供のようだ。

「ちょっとトイレ行くだけだよ」

だから待ってて、と濡女に苦笑いすると、リクオはそのまま女を座らせ直した。

「つららもほら、自分の部屋に戻って」

今まで涙目で黙していたつららがそこで目を丸くさせたのは、女を座らせてそう言う間にも、リクオがついて来いと言うように自分に目配せをしたからだ。

リクオは濡女を自室へ置いて、つららのことを別室に連れて来るなり、言った。

「僕の恋人は誰ですか」
「濡女さんでしょう」
「違うでしょ!」

ぷいとそっぽを向くつららの腕を掴んで引っ張ると、リクオは声を大にさせた。

「あの子はああいう妖怪なんだよ。……僕が絶対なんとかするから、お願いだからさ」

機嫌、直して?
次に眉を下げ、宥めるように言うリクオに、つららは目尻をしょぼつかせた。

「わかってます……私、リクオ様にこんな風に言える立場じゃないです。濡女さんにだって事情があります。でも、やっぱり…」

最後だけは言葉尻を曖昧にし、「ごめんなさい…」とつららはそれに代わるようにして言った。
素直に頷けないことが、ひどく申し訳なかった。

「つらら…」

そうしてつららがしょぼんと肩を落とすものだから、リクオの方もいたたまなくなってしまった。
本当ならば、リクオも今すぐにでもこの女の明るい笑顔を見たい筈だった。

「つらら」

もう一度リクオが名前を呼ぶと、つららは今度は顔を上げた。
その瞬間を逃さずに、リクオはつららの両肩を掴んだまま、ふっと彼女の顔に影を作る。

「!」

何故だか涙が出た。
リクオはいつもそれを優しく包み込むようにしてくれる。
けれど。

「…すれば良いと、思ってますか……」
「思ってないよ」

でも今はこれで許して、と言うと、唇を離してつららの涙を拭ったリクオは困ったように笑い、腕の中につららを強く抱いた。頭を撫でた。
濡女を傷つけるようなことはしたくない。だがつららの辛い顔はもっと見たくない。
目指すは穏便に早々に解決だ。

そしてしばらくそうしていたのだが、なかなか戻らないリクオに不安になったのか、別の部屋から聞こえてくる女の声に、リクオは慌てたようにつららを解放して踵を返した。

――――と考えつつ、結局良策も浮かばないまま濡女にひっつかれ、一日過ごすことになってしまうのだが。

「リクオ様♪リクオ様♪」
「はいはい、何ですかー」

つららに土下座する思いだが、なんとも情けないことに、良い解決策が浮かばないリクオは今困り果てている。
やはりいささか心は痛むものの、つららの為にもはっきりとこの濡女には想いに応えられないことを言ってやるべきなのであろうか。

そんなことを考えながら歩いている廊下の先を見やれば、まだしとしとと雨が降っている空は先程に比べてずっと暗くなっていた。
日暮れだ。

そして最近はこの時間帯になると、リクオは大抵"変化"するようになっていた。

「ん」

背は伸び、髪は茶から銀のそれへ。
あっという間にリクオは妖の姿である。
そして傍でひっついているこの女がそれを見るのも当然のことだ。

「ああ、こいつはだな」

リクオにくっついたままその姿の豹変ぶりに目が点になっている濡女に、リクオが説明してやろうとした矢先である。
この濡女は――――。



1.瞳を輝かせた
2.叫び出した

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