闇が支配する深夜

小さな明かりがぽつりと灯る部屋の中で

精悍な顔付きの青年が真剣な顔で机に向かっていた



その机の上には一冊の書物

彼はそれを熱心に読んでいた

紙面に書かれた文字を一心不乱に目で追いながら、何度も何度も同じ箇所を読み直す

あまりにも熱心過ぎて、時折ぶつぶつと声に出てしまう程だった



「ゆっくりと・・・・焦らして・・・・ふむふむ」



その微かな呟きは小さな蛍光灯の下、夜明けまで続いていた



「行って来ま〜す!」

毎朝恒例の軽快な挨拶が奴良家の玄関に響き渡る

その声に屋敷の妖怪達が一斉に「いってらっしゃ〜い」と手を振っていた

毎朝の恒例、毎日の日課の挨拶を背に、リクオは笑顔で屋敷の門をくぐって行った

にこりと弧を描いた瞼の下に昨夜の名残を残して



「リクオ様、昨夜は夜更かしをなさったのですか?」

案の定、目敏い側近が頭二つ分下の方から心配そうにリクオの顔を覗き込んできた

「ああ、この前見つけた小説が面白くってついね」

その可愛らしい上目遣いを見下ろしながら、リクオはにこりと笑顔を向ける

「もう、寝不足で病気にでもなったらどうするのですか?もうちょっとご自分の体を大事にしてください」

まるで自分の事の様に体を気遣う側近に、リクオは苦笑しながら「ごめん、ごめん」と手を合わせて謝った



こと、この側近に対してはリクオは昔から頭が上がらない

昔から己の守役であり側近であるこの女は、主であるリクオに対して時たま一喝するほどの強さを持つ

なかなかどうして、見た目は華奢で清楚な雰囲気を持つこの女が、ひとたび眉を吊り上げてリクオを叱る様は実母である若菜も「つららちゃんがいれば家は安泰だわ〜」と感心し太鼓判を押す程であった

まあそれは、リクオが無茶をしたり駄々を捏ねたり頭に血が昇った時だけにする事なので、周りの側近達も更にはぬらりひょんでさえ「良い冷却材だ」と、その振舞を注意する者はいなかった

故に、心配しているとはいえこうやって言われてしまうと、リクオは慌てて謝るほか策は無かった

手を合わせて謝りながら、ちらと目の前の女を見る

そこには、「もう」と頬を膨らませて半ば呆れとも困惑とも取れる視線を寄越しているつららの姿があった



こうなればもうこちらのモノ



彼女もまた基本的にリクオに甘いため、この行為は許しているのも同然だった

リクオは安堵の息をこっそりと吐くと、視線を元に戻して目の前の側近――つららを見下ろした

「今度から気をつけるから機嫌直してよ」

そう言いながらつららの手をそっと自分の掌で包み込む

「・・・・・・」

その行為につららは薄っすらと頬を染め、「しょうがないですね〜」とまた上目遣いで見上げてきた



そしてこれは、この女の許してあげるのサイン



既に馴染みの深いその仕草にリクオは微笑むと、そのまま彼女の手を取って歩き出した

「たまにはさ、こうやって歩こうよ」

「は、はい・・・」

にっこりと笑うリクオの視線の下で、つららは恥ずかしそうにこくりと頷くと少しだけ顔を俯かせたまま、リクオに引かれる様に通学路を歩いて行った



リクオ17歳

立派な高校生になったリクオは垢抜け、その容姿も振舞いも成長期の男の子よろしく背も伸び精悍な顔付きになっていた

本家や貸元達の間では、先代に似てきたと噂されその期待も大きい

しかも、華も恥らう高校生リクオは数年前からつららと恋人同士になっていた

ここで言っておくが、決してお手つきをしたとか、手篭めにしたとかそういうわけでは無い



断じてない!



きちんと想いを打ち明け、つららもそれに頷いてくれたのだ

いわば相思相愛、ラブラブ、熱々な二人なのである

しかし、その実中身は健全

その証拠に悲しいかな、リクオとつららはまだ致していなかった



つまりA止まり



厳格に言えばキスまでしかさせてもらっていない

俗に言う『清らかなお付き合い』をしていた

しかしここだけの話、この『清らかなお付き合い』がリクオの悩みの種であった

健全なる健康な男子高校生のリクオとしては――



そろそろ限界だった



何が限界かというと、男の子最大の好奇心をそそるアレである

昨今の一般高校生ともなると”既に経験済み”の、いわゆる大人の階段昇〜る〜♪を3段飛ばしで駆け上がっていく者も少なくはない

リクオの友達の中にもそういった連中は何人かいた

そうすると休み時間やプライベートで会った時など、男数人が集まる場所では必然的に”猥談”が始まるわけなのであるが・・・・

そんな時、級友の話を聞きながらリクオはいつも居た堪れない思いをしていた

みんなには内緒にしているが、自分もれっきとした彼女持ちだ

しかし・・・・

しかしリクオはその級友達の自慢大会・・・もとい、猥談話には入っていけなかった

何故なら



彼らの話は未知の領域だったから



13歳の誕生日の日からずっと、恋人であるつららとはゆっくりとだが愛を育んで来た

しかし、つららと己との位置関係はかなり微妙なものであり

恋人同士と言っても決定的な事実は無く・・・しつこい様ではあるが、つららとはキス止まりである

そんな清らかな関係を未だに続けるリクオにとって、男友達の繰り広げる会話はまさに神の領域だった

そんな話を毎度のようにのろけと共に聞かされる身としては、非常に心身共によろしくなく

知識だけは一人前、好奇心旺盛、育ち盛りの健康男子としては・・・・



限界だった



どうしようか・・・・

隣で幸せそうに歩く恋人を見下ろしながら、リクオは深い深いため息を胸中で吐いていた





お酒・・・だめだ・・・

ふと浮かんだ考えに慌てて頭を振った

リクオは以前の失態を思い出し盛大に溜息を吐いていた

以前、雪女の口吸いに興味を持ったリクオは、つららを酒に酔わせて実行に移したのだが――



その時は本気で死に掛けた



いつもならば優しい蕩けるような口付けが、あの時ばかりは猛吹雪の中で口を開けて突っ立っているような接吻だった

酒の勢いで理性の吹き飛んだつららはまさに――



雪女そのものだった



あの時は妖怪の姿だったから助かったものの、人間の姿でやったらひとたまりも無い

酔っていたとはいえ、ちょっとの口吸いであれなのだ

日常、キスをする自分に対していかにつららが気を遣っていてくれたのかが分かった今

そんな暴挙に出る気はさらさら無く

リクオはどうしたもんかと、再度溜息を吐いた



夕闇迫るこの時間、リクオは自室で愛読書片手に一人悶々と思考を巡らせていた

頭に浮かぶのは恋人との甘い妄想ばかり

既に限界点突破をしかけているリクオとしては、昼も夜もその事で頭が一杯で授業も耳に入らなくなっている程だった



気を抜けば過激な妄想に鼻の奥から赤い何かが出てしまうほどに・・・・



そこまでリクオは切羽詰っていた

その為、先程からどうやってつららをその気にさせるのかで一人悩んでいた

先程の考えを否定したリクオは、また愛読書をぱらりと捲ると目に馴染んだ文章をまた読み直す

そこには何度読んでも同じことが書いてあるだけなのだが・・・・

今のリクオにとってそこに書いてある文字は、まさに魅力的な魔法の言葉であった



「やっぱりこの手でいくか・・・・」



経験も実践も乏しい自分としては、いささか自信は無いのだが

やはり物に頼るよりはマシ

と一人納得し開いていた本をパタンと閉じると、意を決した視線を目の前の壁に向け「うん」と一人頷くのであった

そのリクオの手の中、閉じられた本の表紙には――



『彼女をその気にさせる百の方法』



と記されていた


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