ご注意!悲恋とか死にネタではないのですが、ちょっと二人が可哀相なお話なので。そういう話でも大丈夫な方はどうぞ下へお進み下さい。



その時世界が反転した



「え?」

その報告を聞いたのは僕が学校から帰って直ぐの事だった

僕が帰って来るなり血相を変えて飛んで来た側近の言葉に「まさか?」と我が耳を疑った



まさか

まさか



あの、つららが?



僕は急いで「お早く!」と急かす側近の後を追いかけていった



僕はそれを見た時、一瞬で目の前が真っ暗になった

本当に周りの何もかもが見えなくなってしまった

彼女以外何も見えなくて

彼女を取り巻く周りの景色も、そこに居た仲間達も、皆僕の視界からは見えなくなってしまった

ただ、彼女のみが僕の視界にぽつりと映っていた



見たことも無い表情

見たことも無い視線



「貴方はだれですか?」



面と向かってそう言われた瞬間、僕の世界は反転した



”雪女つららの記憶喪失”

その噂は屋敷中にあっという間に広まった

皆が皆、彼女を心配し彼女の居る部屋を訪れてきた

しかし、その不安そうな顔は治るどころか更に悪化し、訪れた者達は皆肩を落として部屋から出て行った



つららと僕と鴆君

僕は人払いを命じ、今この部屋に居るのはこの三人だけだった

「帰りに襲われたらしいな」

「うん」

鴆君の質問に僕は力なく答えた

こんな事になるならあの時一人で帰さなければ良かったと、僕は目の前の鴆君に見えないように膝の上で拳を握り締めた



今日は食事当番だからとつららは先に屋敷へと帰った

いつもの事

よくあるその申し出に僕は何の警戒心も無く「いいよ」とつららを見送ったのだ

その直ぐ後につららは襲われたらしい

僕に報告に来た側近の話では、空の警護をしていた黒羽丸たちが発見したらしく

その黒羽丸たちの話では、つららは屋敷のすぐ近くで倒れていたという事だった

急いで屋敷に運び込み、ようやく意識を取り戻したつららはその時既に記憶を失っていた

僕はそこまで鴆君に説明すると、ちらりと彼女に視線をやった

すると、不安そうな警戒した瞳とぶつかった

僕は居た堪れなくなって直ぐに視線を逸らすと下を向いてしまった

「事故か……あるいは敵に襲われたか……」

そんな僕の行動を横目で見ていた鴆君が考え込むような素振りをしながら呟いてきた

その言葉に僕の肩はぴくりと震える

敵、という単語に僕は思わず顔を上げて鴆君をまじまじと見つめた

縋るような僕の視線に返すその瞳は真剣そのものだった

「記憶の失い方が半端じゃねぇ。こりゃ事故っつ〜よりはそういった類の妖怪の仕業だと思う」

そして鴆君は一つ小さく息を吐くと苦々しい顔をしたままそう告げてきた

僕はその言葉に奈落に突き落とされたようなショックを受ける

事故ならまだいい

軽い記憶喪失ならその内戻ったりもすると、昔誰かに聞いたことがあった

しかし事故ではなく妖怪の仕業だとしたら?

「記憶は戻らないかも知れねぇな……」

鴆君がぽつりと呟いた言葉に僕は今度こそ目の前が真っ暗になった



つららが記憶を失ってから早くも一週間が経とうとしていた

その間、黒羽丸をはじめ他の仲間達はつららの記憶喪失の原因を突き止めるべく情報集めに奮闘してくれていた

しかし、その努力も虚しく未だに原因を突き止められなかった

当のつららはというと、朝からずっと居間の部屋からぼんやりと庭を眺めていた

暖かな日差しに肌をくすぐる風

部屋から庭を眺めるその姿は、傍目にはのんびりと穏やかな光景に見える

しかし事は重大だった

今あそこに居るつららは氷麗ではない

姿形はつららであるがその中身は別人

いや、正確には空っぽだった

己の名も己の存在も何もかもを全て忘れてしまった憐れな女がそこに居るだけだっだ



「あら、つらら暇なの?手伝ってくれる?」

僕が居た堪れない気持ちで彼女を見ていると、丁度通りかかった毛倡妓がつららに声をかけてきた

ゆっくりと緩慢な動作で毛倡妓を見上げる彼女

どこかぼんやりと虚ろな視線のまま毛倡妓の持っていた洗濯物を見つめていた彼女は

こくん

まるで幼子の様に首を縦に振ってきた

「そう、ありがとう」

毛倡妓はいつもの彼女とは全く違うその動作を気にする風でもなく、嬉しそうに頷くとつららの前に取り込んできたばかりの洗濯物を置いた

乾いたばかりのお日様の香る洗濯物

それをじっと凝視する彼女

「これはね、こうやって畳むのよ」

洗濯物を持ったまま引っ張ったり上に持ち上げたりして首を傾げている彼女に、毛倡妓は優しく教え始めた



あんな事も彼女は忘れてしまったのだ



いつものつららならあの位、慣れた手つきであっという間に畳み終えてしまっている

見慣れない光景に僕の心は騒いだ

一生懸命教えられる通りに洗濯物を畳んでいく彼女

そんな彼女を見ていたくなくて僕は足早にその場を去った


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