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「リクオ様、失礼します」
学校から帰宅して暫くした頃、部屋の廊下から側近頭の声が聞こえてきた
机に向かっていたリクオは、声のした方に振り向くと「入っていいよ」と笑顔になりながら入室を許可する
すると徐に襖が開き、重箱を抱えたつららが中へと入ってきた
伏せ目がちに部屋へと入ってきたつららは視線を上げた途端、固まった
しかしそれは一瞬の事で、すぐに何事も無かったように襖を閉めると部屋の奥へと歩みを進めた
「これ、お持ちしました」
つららはそう言うとリクオのすぐ目の前に来て、持ってきた重箱の蓋を開いて見せた
「ありがとう、つらら」
リクオは中のものを覗き込むと嬉しそうにそう言って笑ってきてくれた
その時
「これは何ですの?」
主の喜ぶ顔を見てほっと顔を綻ばせていたつららの耳に聞こえてきた、透き通るような美しい声
努めて意識しないようにしていた人物の声が、直ぐ横から聞こえてきた
つららはその声にぴくりと反応したが、そうと悟られないように静かに返答する
「しゃりしゃりレモンと言うものです」
リクオ様に頼まれまして、と隣でその重箱を覗き込んでいる女性へと説明した
つららが部屋に入って来た時、見合い相手の女性が部屋の中に居た
そのこと事態は予測していた事だったので、つららは気にしないようにしていたのだが
彼女の姿を見て不覚にも動揺してしまった
彼女――リクオの見合い相手は――あろうことか当たり前のようにその場に鎮座し、当たり前のようにリクオの身の回りの世話を焼いていたのだった
知っていた事とはいえ、今の今までそれを見ないようにしてきたつららには衝撃だった
あれは私の仕事だったのに……
彼女の手の中に在るものを見てつららは小さく息を吐いた
手の中のもの――そこにはリクオの制服のシャツがあった
ボタンでも取れたのであろう、彼女の横には針箱が置いてある
『リクオ様、はい、これ付けておきました♪』
『ありがとう、つらら』
その途端、過去の思い出が脳裏に蘇る
哀しいと思う心を無理矢理押し込んでつららは平静、と務めた
そして――
手に持っていた重箱をリクオに渡すと「では」と言って素早く踵を返す
しかし、その瞬間リクオに引き止められてしまった
つららはぴくり、とまた肩を僅かに震えさせ、そして表情を崩さないようにゆっくりと振り返った
「なんでしょう?」
少しばかり声が固くなってしまった
リクオはそんなつららをじっと見つめている
見合い相手の女性も何事かと、リクオとつららを交互に見遣っていた
「つらら、ちょっといいかな?」
「あ、はい」
何か用でもあるのか、リクオはつららにそう言うと隣に居る見合い相手へと視線を移した
「キミヨさん、すみませんが席を外してもらえますか」
「え?」
キミヨと呼ばれた相手は驚いてリクオの顔を見上げた
「僕の側近頭と重要な話があるので」
見合い相手であるキミヨは、申し訳なさそうに退室を願うリクオに何か言いたそうな視線を向けてきていたが
しかし直ぐに「わかりました」と、にっこりと笑うと部屋から出て行った
その一部始終をポカンと口を開けたまま見守っていたつららは、彼女が退室するや不思議そうにリクオを見下ろした
しかし、この状況を作ったリクオは
「わあ、久しぶりだなコレ」
と言いながら重箱の中のものをつまみ始めたのだった
シャリシャリと音を立てながら嬉しそうに食べるリクオを暫く見ていたつららだったが
「あの、リクオ様?」
いつまでも何も言わないリクオを訝しく思い、意を決して声をかけてみた
しかしリクオはそんなつららに「どうしたの?」という視線を向けるばかり
確か我が主は「側近頭と重要な話がある」と言っていたはず
何かあったのかと心配しながらリクオの言葉を待っていたのだが
一向にしゃべる気配が無い
どうしたのかと主の返事を待っていたつららに、リクオはやっと口を開いた
「つらら」
「はい」
「お茶頂戴」
「へ?」
来た!と身構えたつららは、リクオの言葉に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった
「これ食べたら喉が渇いちゃった」
しかし屈託無く笑いながらそうお願いしてくる主に、つららは戸惑いながらも「お、お待ち下さい」と言って急いで台所へと向かった
そして急いで冷めかけたいつもの茶を持ってくると、リクオは嬉しそうにごくごくと飲み干し「あ〜やっぱりこれだよね〜」と笑顔で言いながらまたレモンをかじり始めてしまった
『重要な話』を期待していたつららはリクオの行動に拍子抜けする
一体主は何をお考えなのだろうと、つららの頭の中はハテナで一杯だった
暫くの間主の様子を見守っていると、「つららも食べなよ」と重箱の中身を勧められた
つららは一瞬躊躇ったが、おいしそうに食べる主に習い一つ摘んで口に入れた
甘酸っぱい香りが鼻腔に広がる
甘くて、酸っぱくて、ちょっぴり苦い味が、口の中を刺激した
最近知った自分の想いみたいだとつららは思った
そしてその想い人をちらりと見遣る
彼はおいしそうにレモンを食べていた
益々主の意図が判らなくなってつららは途方に暮れる
どうしたものかと視線を巡らせていると
先ほどキミヨが持っていたシャツが目に入った
まだ途中だったのだろう、取れかけたボタンがそのままになっていた
ぼんやりとそれを眺めていると、リクオが声をかけてきた
「それ、彼女がやろうとしてたんだけど、暫くここへは戻って来れないようだから、つららが直しておいてよ」
その言葉につららは弾かれたように主の顔を見上げた
確か主は彼女を無理矢理退室させたはず
すぐにでも戻って来たいというような顔を彼女はしていた
自分がこの部屋を出ればきっと彼女は直ぐ戻ってくるであろう
しかし主が言った言葉は「暫くここへは戻ってこない」だった
主の意図がだんだんと理解してきたつららは、緩みそうになる口元に慌てた
思わず綻んでしまいそうになるその顔を無理矢理引き締めた
そして――
「はい、喜んで」
つららは元気良く頷くと、感情を隠しきれないその仕草でリクオのシャツを手に取るのだった
二人が部屋に篭ってから数刻
あの側近頭とか言う女はまだリクオの部屋に居た
「なんで……」
ぎりっと唇を強く噛む
リクオ本人から退室を願われて渋々出てきたものの……
中の様子が気になって、キミヨは部屋から少し離れた廊下の角から、ずっとあの女が出てくるのを見張っていた
しかし、待てども待てどもあの女が出てくる様子は無い
しかも、部屋の中からは愉しげな笑い声が時折聞こえてくるのだ
キミヨは焦った
「やはりあの女……」
キミヨは忌々しげに呟くと、じっとリクオの部屋を監視し続けるのであった
月夜にぼんやりと浮かぶ枝垂桜を肴に縁側で一杯
美しい女を侍らせて呑む酒はまた格別
上機嫌でほろ酔い気分のリクオは至福だった
「つららも付き合えよ」
そう言って己の杯を隣の女へと差し出した
「あ、はい」
つららは差し出された杯を受け取り、リクオの酌でその酒を一気に呷った
「ふぅ……」
慣れない酒の味に喉の奥が焼け付く
強い度数にくらりと一瞬眩暈を覚えたが、主の目の前だからと堪えた
甘い吐息を吐き出すつららを、リクオは目を細めて見つめている
その視線に、つららは頬を染めキョトキョトと視線を彷徨わせながら「失礼しました」と口元を袖で隠して杯を返した
そして同じようにリクオに酒を勧めると、つららよりも早いペースで酒を飲み干すのだった
あれからリクオは、何だかんだと理由をつけて、つららをなかなか離さなかった
そして今までのように自分の世話をさせ、夕餉の後の晩酌まで付き合わせていた
つららもつららで、久しぶりにリクオの世話ができると内心で喜び、遠くから感じる視線を無視して酌をしていた
先ほどからひしひしと伝わってくる視線
突き刺さるようなその視線を一身に受けながら
つららはふと、先程の遣り取りを思い出していた
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