「さ、あとは一人で戻れるでしょう?」

廊下の角を二つばかり曲がった所でキミヨは突然そう言うと徐につららから離れた

支えを失ったつららはよろめき壁へと凭れ掛かる

つららは壁に凭れたまま焦点の定まらない虚ろな瞳でキミヨを見上げた

キミヨはそんなつららを見下ろすと、ふっと口元に笑みを作りながら言ってきた



「側近頭なんでしょう?」



その言葉につららは目を僅かに見開くと唇を噛んだ

そして壁に手を付き、ふらつきながらも自室へ向かって歩き始める

素直に歩き始めたつららのにキミヨは笑みを零すと、くるりと踵を返す

そして、一度も振り返らずにその場から去って行った



「失礼します」

そう言って部屋の襖を開け、返事を待たずに中へと入ってきたのはキミヨだった

「キミヨ……さんか?」

てっきり、つららを送り届けてそのまま部屋に帰るとばかり思っていたリクオは、キミヨの急な来訪に驚いたような声を上げた

「どうしたんだい?……まさかつららに」

「雪女さんなら無事に部屋へ送り届けました」

リクオの心配を遮るようにキミヨはにこりと笑顔を向けながらそう言ってきた

その言葉にリクオは「そうか」と、ほっと吐息を漏らす

そんなリクオの反応を苦々しく思いながら、しかしキミヨはそれと気付かれないように、にこやかな笑顔でこう告げてきた

「はい、雪女さんも部屋に入るなりすぐ横になりましたわ。酔いが回ったんじゃないかしら?」

あまり無理はさせてはいけませんよ、と苦笑しながら言うキミヨにリクオは素直に頷いた

「ああ、そうだな」



今夜は久しぶりにつららが側に居てくれたので少し浮かれてしまったようだ

ついつい慣れない酒を彼女に勧めてしまった

つららが酒を飲む姿など生まれてからこの方、見かけたことは殆ど無いというのに

あるとすれば己と七分三分の杯を交わした時だ

それほど彼女は酒を飲まないというのに、つい気分が良くて勧めてしまった

彼女が言うように、つららが気分が悪くなってしまったのは自分の責任だな

と、次からは気をつけようとリクオは内心で反省するのだった



己の言葉に視線を落として考え込んでしまったリクオの顔を、キミヨは目を細めながら見ていた

ふと見上げた視線にキミヨが写ったとき、リクオに疑問が浮かんだ

つららの事を心配し過ぎていたために今まで気づかなかったのだが、何故ここに彼女が居るのだろうと今頃になって気がついた

そしてその疑問を何も考えずに口に出していた

「それで、キミヨさんは何でここにいるんだい?」



こんな言い方はいささか失礼かと思ったが、こんな夜分にしかもわざわざ引き返してきたのには何か理由があるのではと聞いてみた

しかし

そんなリクオの言葉に、何故かキミヨは俯いてしまった

よく見れば両の肩がわなわなと震えている

何か失礼な事を言ってしまったのかとリクオが不安に思った時

キミヨの口が動いた

「来てはいけませんでしたか?」

「?」

搾り出すように吐き出された言葉にリクオは首を傾げた

「キミヨさん?」

「逢いに来てはいけませんでしたか?」

訝しげに声をかけたリクオにキミヨはがばりと顔をあげると潤んだ瞳でそう言ってきた

「私、私……リクオさんの側にいつでもいたいんです!」

キミヨは叫ぶようにそう言うと、たっと駆け出しリクオの胸に飛び込んできた

突然飛び込んで来た細い体を反射的に受け止める

ぎゅっと背に回された細い腕の力にリクオはたじろいだ

「好きです、リクオさんの事が……誰よりも」

更に、回した腕に力を込めて見上げてきたその顔は今にも泣きそうだった

あまりの急な展開に、夜の姿のリクオも困惑する

本気の……鬼気迫る様なその告白に、いつもはのらりくらりと返せるはずのリクオは言葉に詰まってしまった

目を見開いたまま涙ぐんだその顔を見下ろしている

何も言わないリクオの反応を了承と取ったのか、キミヨは涙で潤んだ瞳を閉じるとゆっくりとリクオの顔に近づいていった

そして――



「リクオ様〜もう寝る時間ですよ〜」



あと数センチ

といった所で、間の抜けた甲高い声が聞こえてきた

その声にリクオは正気を取り戻すと、目の前に迫っていたキミヨの顔に驚き慌てて離れた

そして声の聞こえた方に振り向くと、開いた襖の向こうには毛倡妓が立っていた

何故かジト目でこちらを見ている

「明日も早いんですから早く寝てくださいね〜、あ、お客様ももう就寝の時間ですよ〜」

毛倡妓はそう言うと、にっこりと笑いかけてきた

まるで菩薩の如きその笑顔は……何故か見ていると背筋から冷や汗が流れてくる

隣にいるキミヨも同じだったようで

「わ、わたくしも、もう寝ますわ」

と、オホホホホ〜と笑いながら慌てて部屋を出て行った

そんなキミヨをちらりと目だけで追っていた毛倡妓は、彼女の姿が見えなくなるとまたその視線をリクオへと戻してきた

しかもジト目のまま

何か言いたそうなその視線にリクオは「なんだ?」と訝しげに見返してくる

そんなリクオに毛倡妓は

「いい加減はっきりしないと、つらら居なくなっちゃいますよ」

と、そんな事を言ってきたのであった

もちろん、ぎょっとしたのはリクオの方で

なんで突然そんな事を言われなければいけないんだと食って掛かった

しかし、そんなリクオを元花魁は鼻で笑ってあしらうと

「”二兎追うものは一兎も追えず”ですよ」

これまた先程と同じ笑顔で言ってきた

その言葉にリクオは何故かぞくりと寒気を覚える

その時――



「あ〜毛倡妓の言う通りだな〜」

「おお〜いい事言うな〜」

「そうだな〜リクオ様もいい加減に焦ってもらわにゃ」



そんなリクオの背後から、うんうんと同意する声が聞こえてきた

慌ててがばっと振り返ると、どこから湧いて出てきたのか側近達がずらりと並んでいた

しかもリクオと杯を交わした側近達ばかりである

その顔ぶれにリクオはまたしても背筋に嫌な汗が流れていった

「お、お前ら……」

その後――



二時間たっぷり

毛倡妓率いる側近達に何故かお小言にも似た厭味を喰らうのだった


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