「リクオ様・・・この問題、ここで間違ってますよ?」
「・・・え?」
「ほら、ここ。x3-y3は、(x-y)(x2-xy+y2)ではなくて、(x-y)(x2+xy+y2)ですよ」
慌てて見直してみれば、確かにそうだ。そのせいで、不自然な解答になってしまっている。しかしそれだと、別の部分がどうもおかしくなりそうだった。
「えーと・・・」
考え始めたリクオに対し、つららは少し微笑んだ。それが横目に見えて、やはり不整脈を起こし始めた心臓のために、リクオの視線は紙の上を虚しく滑るばかりで問題など全く頭に入らなかった。それを見てつららはリクオが分からないと思ったのだろう、おもむろに手を伸ばして言った。
「ちょっと貸して下さい」
そして、リクオのシャープペンを持つと、計算用紙にすらすらと解答を書き始めた。流れ落ちる黒髪が計算用紙の上にかからないように、髪を掻きあげ耳に掛ける。その仕草に、思わぬ色気を感じて、リクオは目を奪われた。
さらりと流れ落ちる艶やかな黒髪
その黒髪をたどる、細く繊細な指
精巧な人形のような面立ち
そして、桃色に色づく柔らかな、唇―――
(う、あ・・・)
顔に血が上るのが、はっきり分かった。見慣れているはずなのに、それこそ生まれたときから、ひょっとすると母よりも長く一緒にいた存在かもしれないのに。いきなり襲ってきたそれは、明らかに制御不能だった。
固まり動けずにいたリクオには気付かず、つららはそのまま問題を解き終えた。そして、輝かんばかりの笑顔をリクオに向ける。
「ほら、できましたよ、リクオ様!」
そこで、ようやく主の様子が違うことに気が付いたらしい。驚いて、リクオを見つめた。
「若、顔が赤いですよ?!ひょっとして、熱でもあるんじゃ・・・」
「や、なんでもない!すぐ収まるから!!」
慌ててリクオは首を振ると、つららが書いた解答に目を降ろした。そして、そこにある見事な模範解答に、目を丸くした。
「すごいね・・・つらら、数学できたんだ」
「え・・・えと、まあ」
つららは、照れて顔を赤らめた。リクオに褒められたのが、純粋に嬉しいのだろう。
「その・・・先代の鯉伴様は、新しい物好きでしたから。西洋の知識が入ってくると、積極的にそれらをこの家にも導入されていって。こうした教育もその一部で、私も手習い程度には、齧ったんです。高校ぐらいの範囲までしかやりませんでしたし、そんな立派なものではないんですけど」
それでも、そんな随分前のことをきちんと覚え、こうしてリクオに教えられたということは、やはりつらら自身の頭が良いからだろう。つららの意外な一面に、リクオは素直に驚いた。
「でも、やっぱりすごいよ・・・うん、すごい。つらら、こんなこともできたんだ」
「そ、そんな・・・」
褒めちぎるリクオに、さすがに照れて居たたまれなくなったのか、つららは少し口早に提案した。
「そ、そうだ!区切りも付いたことですし、休憩にしましょう!お茶、持ってきますね」
つららはそう言って立ち上がったが、次の瞬間、リクオが止めた。
「あ、ちょっと待って、つらら。そう言えば、もうシャープペンの芯がないんだった。休憩よりも、ちょっと気分転換に買い物がてら、外を歩いてくることにするよ」
「あ、そうですか?でも、私もこの後、夕飯の買い出しがありますから、何ならついでに買って来てもよろしいですが」
「え・・・でも、この炎天下、つららだけで大丈夫?」
「仕事ですし・・・完全防備していきますから!」
「心配だな・・・よし、僕も付いてくよ」
「え・・・えぇ?!」
そういうことになった。
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