「おはよう、今日もよろしくね」
待ち侘びていた笑顔を見れて僕も自然と笑顔になる
「おはようございます、お嬢様」
僕はいつもの様に挨拶をすると、すぐに向きを変え人力車の取っ手を握った
お嬢様が軽やかな足取りで車に乗り込む
きちんとお座りになったのを確認すると、僕はゆっくりと立ち上がった
ガラガラと音を立てて動き出す人力車
僕の力で引き、お嬢様を学校まで運ぶ
それが僕に与えられた仕事だった
毎日毎日繰り返されるそれ
しかし、この仕事は僕にとって苦ではなかった
むしろとても誇らしく
そしてとても幸せだった
お嬢様をお運びできる
それが僕の生甲斐だった
しかも幸運な事に、お嬢様はこんな僕に話しかけてくださった
一介のただの雇われ使用人である僕に
「今日はゆっくり走ってちょうだい、少し時間に余裕があるから」
「はい」
「ああ、今日の帰りは問屋さんへ寄ってね、新しいリボンが届いているはずなの」
「はい」
他愛無いただの報告や命令ばかりだったけど、それでも僕は嬉しかった
お嬢様が話し、それを僕が聞く
一介の使用人である僕には勿体無いくらいだ
今日もまた僕はお嬢様の話を聞くべく黙って車を引いていた
しかし、今日は何故かお嬢様は一言も話しかけてはくれなかった
聴こえて来るのは溜息ばかり
いつも明るいお嬢様が今日は珍しくおしゃべりをしない
僕は人力車を引きながらそっとお嬢様を見た
お嬢様は静かに座っていらした
しかも顔は俯いたまま
前髪で表情は伺えなかったが明らかに気落ちした様子だ
僕は何度もお嬢様の様子を伺いながら意を決して声をかけてみた
「どうなさいましたか?」
「え?」
突然声をかけてきた僕の声にお嬢様は驚いて顔を上げた
「いえ、今日は少し元気がないように思えたものですから」
僕は少し躊躇ったが、さらに言葉を続けた
僕の言葉にお嬢様が息を呑む気配が伝わってくる
僕はその瞬間怒らせてしまったのかと焦った
ただの使用人が出過ぎた真似をした
明らかに罵声される
僕は前を見ながら自分の犯した過ちを悔いた
しかし
「私ね……お見合いする事になったの」
お嬢様の口からは意外にも叱咤の言葉は出てこなかった
しかし、その代わりに僕にとっては嬉しくない事実を聞かされた
僕は後悔した
話し掛けなければよかったと思った
お嬢様からあのお話を直接聞くことになるなんて……
僕は少しだけ俯くと、走る速度を速めた
僕の想いとは裏腹にお嬢様は尚も話を続けてこられた
「来月、私お見合いするの……お父様の命令で……」
お嬢様は何故か探るように一言一言ゆっくりと話してきた
「そうですか」
僕はお嬢様の言葉に簡潔に頷いた
「ええ」
お嬢様も短く返事をする
「おめでとうございます」
僕は何度も躊躇い、やっとの事でその一言を口から絞り出した
僕の言葉にお嬢様は何も言わなかった
ちらりと盗み見た僕の瞳には、お嬢様の悲しそうな顔が映った
僕は慌てて前を見る
なんで
どうして
そんな顔をなさるのだろう
ただの使用人である僕にはお嬢様の心情はわからなかった
ただ悲しませてしまった
僕が話しかけたせいで
その事だけはわかった
だから僕は黙って人力車を引き続けた
もう何も言わない
お嬢様が望むまま僕はこの車を引き続ければいい
そう、僕に与えられたのはそれだけ
僕は黙って車を引き続ける
走れ走れ僕の足
もっと速く
ずっと速く
彼女を攫って行けるくらい
できることならこのままずっと……
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